日本国際映画著作権協会-JAPAN AND INTERNATIONAL MOTION PICTURE COPYRIGHT ASSOCIATION,INC.-

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MPAAの歴史

1922年、メジャー映画会社の4名の重役、Samuel Goldwyn、Louis B. Mayer、Jesse LaskyとJoseph Schenckは、アメリカ映画に対する政府の検閲を 求める要求の高まりを受けて、”The Motion Picture Producers and Distributors Association of America ” を創りました。この4名の創設者たちは 映画産業に対する一般大衆のイメージをより好ましいものとし、その当時のサイレント映画の役割をアメリカの主流の中で守りたいと望んでいました。
ハーディング政権閣僚の一人で、郵政長官を務めたWilliam Haysはこの協会を率いて映画製作への政府の干渉を阻止する主導権を確立し、「製作コード」 あるいは「ヘイズ・コード」として知られる業界主導の映画検閲制度を創設しました。この制度は、「有害」なものを排除するために全ての映画の スクリプト検閲を義務付ける制度です。

1945年、前商務省長官Eric Johnstonがヘイズの後を継ぎ、協会の名称も”The Motion Picture Association of America (MPAA)” と変更されました。 ジョンストンは煩雑な検閲が義務付けられたヘイズ・コードを継承しつつ、第二次世界大戦後、世界中で人気が高まっていたアメリカ映画の促進にも 乗り出しました。
1963年、ジョンストン会長が亡くなると、MPAAの最高責任者のポストは3年間空席になりましたが、その間スタジオ各社の重役たちは後継者を探して いたのです。

1960年代後半はアメリカがさまざまな変化を経験した時代ですが、映画もまたそうでした。市民権や婦人参政権、労働組合といった社会の動きと共に、 フランクでオープンな新しい種類のアメリカ映画が台頭してきました。アメリカ社会が自由に向けて大きく動いている中、映画産業の厳格な自己検閲体制も 変わらざるを得ませんでした。
1966年、ジョンソン大統領の特別補佐官だったJack ValentiがMPAA会長に指名されました。同じ年、社会的慣行の変化を反映して、ヘイズ・コードにも 全面的な改正がなされました。バレンティ会長の在任期間は38年間の長きにわたりましたが、1968年には親が子供に見せたい映画を判断する際に役立つ 映画の内容情報の提供をその主目的とする自発的な映画格付け制度を創設して、映画製作者に創造上・芸術上の自由を与えました。
それから40年以上が経っていますが、この制度は依然としてアメリカ社会と共にあり、アメリカの表現の自由の輝けるシンボルとなっています。

バレンティ会長が2004年に引退すると、前カンザス州選出下院議員であり農務省長官だったDan GlickmanがMPAAの会長兼CEOに選出されました。
2010年9月までの在任期間は映画産業が大きく移行する時期でもあり、グリックマン会長はその間MPAAを率いてきました。
デジタル時代の到来は映画配給に非常に大きなチャンスをもたらしましたが、一方では、オンライン著作権海賊という映画産業の健全化にとって最も深刻な脅威の出現を 引き起こしたのです。

現在、MPAAの会長兼CEOはチャールズ・H・リブキンが務めています。 チャールズ・H・リブキンは、2017年9月5日にアメリカ映画協会のCEOに、同年12月6日に会長に就任しました。彼はMPAAのグローバルミッションを 前面に推し進め、米国の最も強く、活気ある産業の一つであるアメリカ映画、ホームエンターテイメント、テレビ部門のサポートをしています。

その始まりから現代に至るまで、MPAAの核となる使命は変わりません-映画ビジネスと製作技術、そしてその楽しみを世界中に広めていくことです。